口癖に隠れている本心

加害更生プログラムでは、暴力を手放すために

13項目からなる"変化へのステップ"を学んでいきます。

これは暴力を引き起こす元となっている自分の考え方や暴力を肯定する言い訳を

自分がしていることに気づいて改めなさいと記したものです。

 

これらを実行するためには自分の歪んだ考え方や暴力的な言動に気づかなければなりません。

過去の自分の言動をひとつひとつ思い出して振り返り、

そのとき自分が言いはなった言葉の本心(目的)を明らかにしていきます。

そうしてみると私は無意識で「だって〇〇だから」とか「でも〇〇だから」

という言葉を頻繁に使っていました。

 

この口癖とも言える発言に隠れている本心を探っていくと

自己正当化があったことに気づきました。

 

「だって〇〇だから(自分は悪くない=正しい)」という主張だったのです。

しかし、ここでいう自分の正しさには客観性と根拠がないものでした。

そのように自分の発言をとらえてみると

「だって」「でも」という言葉は、

相手を言い負かせて屈服させようとする思考に基づくものだったのです。

 

言い替えればこの発言は暴力の行使だったということです。

ここからさらに、なぜ自分が正しければ暴力をふるってもよい

と思っているのかについて考えてみると、

正しい行動は正当化されるという幼少期から学習してきた処世術を悪用していたのです。

何とかして自分の思い通りに事を運びたいという幼稚な欲求が

「だって」「でも」の発言となって表れていたのです。

 

このように考えていくと他にもよく使う口癖がありました。

それは「疲れた」「疲れる」です。

一見、自分の気持ちや体の状態を言っているだけのように思えますが、

「疲れた(だからいたわって欲しい)」「(あなたと話すと)疲れる」という

自分の本心を隠した発言でした。

 

これらの発言も私が子どもの頃、

風邪をひくと母や周囲の人に優しくしてもらえたという体験から

学習してきた他人をコントロールする術だったのです。

 

幼児期から学童期、思春期を経て青年期、成人という人間の成長過程で

自分の内面と向き合い、悩み考えて自己を確立していくという努力を回避して、

周囲の人たちに甘えて責任転嫁してきた結果が今の私の言動に表れているのだと思います。

 

暴力の肯定に繋がる「だって」「でも」「疲れた(る)」という口癖を

「そうですね」「わかりました」「充実した(してる)」

という言葉に改めていきたいと思います。