自分のあり方を問い続ける

 更生プログラムに参加して、僕はこれまで生きてきて身につけた暴力に繋がりやすい思考や価値観、言動を手放して、以前とは異なる新たな行動を選択できる自分に変わるため学びを続けています。

 しかしながら、この目的を曖昧にしたまま(意識せず)グループに参加してしまった日は、教材の内容に疑念を抱いたり、仲間の意見に懐疑的な目を向けてしまうことがあります。

 

「こんなこと難しくて僕には無理」

「口ではそう言っても実際にはできない」

「そんなの偽善だろう」・・・

 

こんな言葉が頭の中から聞こえてきます。

 

グループ参加中のタイミングで本来の参加目的を思い出して思考を学びに引き戻せればいいのですが、このような懐疑的な気持ちで終始参加してしまった日などはとてつもない疲労感と罪悪感に苛まれることになります。僕がプログラムに参加した当初は、こんなことが本当によくありました。

 

 今振り返ると僕は自分がこれまで身につけてきた他人とのコミュニケーションの取り方や出来事への対応要領を変えることに猛烈な不安というか恐怖のようなものを感じていました。

 ⅮⅤをしてしまいプログラムに参加したにも関わらず”それなりに生きてきた”と思っていたことが変化への必要性を阻んでいました。妻や子どもたちを傷つけ苦しめてきたことを過小評価していたのです。これは彼女たちの気持ち(痛み)を大したことではない、と僕が思っていたからに他なりません。「そんなに酷いことをしたのか」「確かに度が過ぎたこともある」「でもあの時の僕はそうするしかなかった」、まだまだ頭の中で言い訳は際限なくこだましてしました。

 

 そんな揺らいだ気持ちを抱いたままプログラムに参加しはじめた僕の発言は、当然のように自己中心的な思考に基づいたものでしたが、自分ではどこがおかしいのか気づくことはできませんでした。そんな僕にグループの仲間が何回も何回も丁寧に思考の歪みを指摘してくれました。あの時から今に至るまで、本当にありがたく思っています。

 

 さて、そんなありがたいグループに僕が参加できるも1週間に1~2回ほどで月にすると6回程度です。そうするとその他のほとんどの時間は自分一人で自分の思考や価値観の歪みに気づき、暴力に繋がるような言動を変えていく努力をしなければなりません。職場で、電車で、スーパーで、駐輪場で、道を歩いていて、車を運転していて、すべての場面で自分の行動に気を配ることが求められます。

 もっとも、ここでいう”求めている”のは変わろうと決めた自分自身なので他人に強要される苦痛はないものの、僕の中では変化への不安や自己中心的な思考からくる面倒と思う気持ちとのせめぎ合いが起きています。それでも僕には自分のあり方を問い続けて変わらなければならない責任があると考えています。

 

 妻と子どもたちは今どんな思いで僕を見ているのだろうか。

 

 僕は自分の取り組みに対する気持ちが揺らいだときに意識していることがあります。新聞やニュースなどで不慮の交通事故にあったり凶悪犯罪にあって妻や子どもを失ってしまった遺族のコメントです。「犯人には自分の罪と一生向き合って二度と私たちのような不幸な人をつくらないで欲しい」、この”一生向き合って”という言葉が僕は自分に向けられている言葉に聞こえています。

 

 深い悲しみ、絶望感、孤独感、虚無感、当然怒りや憎しみなど並々ならぬものがあるであろう遺族が加害者の更生を切望する気持ち、僕はこれを裏切ることはできないという思いで自分のあり方を問い続けプログラムに取り組んでいます。

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