私はパートナーや子供たちと同居している時分から、自分の人生に意味や目的をどうも感じられず、それが漠然とした不安や苛立ち、虚無感のもととなっていた。大きな目標や夢を持って、全力で打ち込んでいる人のことを羨ましいと思っていた。
いわゆる目標には、「これを成し遂げたい」という外面的・行為的目標と、「こういう人でありたい」という内面的・存在的目標とがあると思っている(何か正しい用語があるのかもしれないが、私はこう命名・分類している)。とにかく外的な成果ばかりを重視する両親の影響が強かったためか、私は仕事や社会における業績・評価といった外面的目標ばかりを重視してきた。それなりに結果を出したり評価されることもあったが、どうも全身全霊をかけて打ち込むというほどの情熱は持てず、従ってそれほどの達成感を感じたこともなかった。それはおそらく、その外面的目標が、私の内的動機からくるものではなかったからだろう。「一番でなければならない」という親から刷り込まれた価値観を、何となく自分の目標だと勘違いしていた。
内面的目標に関してはずっと軽視してきたが、家族と別居し、たんとすまいるに参加するようになってからは、「自分を変える」という内面的な目標にシフトせざるを得なくなった。その具体的内容は時によって多少変遷はするものの、概ね「自分で自分を幸せにできること」、「家族と良い関係を構築するに相応しい自分になること」といったものだ。しかしやはり、心のどこかでそれらの目標をナメていた節がある。スケールの大きな外面的目標に比べて、どうも地味で個人的で小さく、超えるべきハードルも低く、自分の人生の目標としてはふさわしくないんじゃないかという思い上がりがどこかにあった。「あんな毒にも薬にもならないような奴だって家族とうまくやれてるじゃないか、俺の目標は本当はもっとどこか高いところにあるはずだ!」といった思いが心の片隅にあった。いや、口では、「人が変わるのは難しいことだ」などと言っていても。本当に本当に難しいことを、いまいち覚悟できていなかった。
このことは、先日たんとを卒業されたEさんの説明責任を聞いていて思い知らされた。「この人は24時間365日学びのことを考えているんじゃなかろうか?」というくらい、生活のすべてが学びと自分の変化のためにあるようだった。とてもじゃないが真似できないと思った。そんなMr. ストイックと呼んでいいくらいのEさんをもってしても、「変わるのは本当に難しい」のだそうだ。Eさんの話を聞きながら、「変わる」というのは困難を極めるもので、しかしだからこそ重要な意味を持つもので、全力をかけて取り組むに値するものなのだと感じた。
私が以前思い描いていたような、華々しい社会的業績を目指しているというのとは違うが、Eさんは明らかに、何かに全力を傾けて打ち込む人間の輝き、私が心から憧れていた輝きを持っていた。その後私もEさんを見習って、常に「学び」を意識するようにした。何をしている時でも、数分に1回くらいは、ほんの数秒、今の自分の行動、気持ちの動きを振り返ってみたり、ちょっと時間が空いた時には、仲間と話したことや本で読んだことと照らし合わせて考えてみたり、振り返りのネタになるようなことはなかったかと考えてみたり(ちなみにEさんはこう言う行為すら「偽善ではないか」と悩んでおられた、生粋のストイックである)。
やってみる前は、生活のすべてが縛られているようで窮屈なんじゃないか、何をしていても心から楽しめないんじゃないかという気後れがあった。しかしやってみると逆に心が安定し、さらに生き生きと活動してくることを感じた。「変わる」という目標が一本の軸となって、私の心をしっかり支えてくれている気がした。
内面的目標をあれだけナメていた私だが、考えてみれば自分の内側から発するこれほど切実な目標を、かつて持てたことはなかっただろう。全身全霊をかけて打ち込みたいと思える目標をやっと持てたのだ。将来的にはまた、新たな夢や目標が見えてくることがあるかもしれない。でも今は、ここから始めるしかない。新たなスタートラインに立っているような、新鮮な気持ちだ。
直接言えなかったが、Eさんには感謝している。そしていつか、私の背中を見て誰かが奮い立ってくれるような、そんな存在になりたいと思う。
4-20