最近、考えることの1つに「自立って、どういうことだろう?」という自分自身への問いかけがあります。
普通に考えると、「自立」はひとり立ちすることだから、人に頼らず生きていくということになります。ただ、私もそうなのですが、「たんとすまいる」の仲間には「支えられていること」「支え合っていること」を大切にしている人がいます。
仏教も同じ。人も動物も植物も無生物も、みんながインタービーイングである、つまり、宇宙のあらゆるものが相互につながっている、支え合っているという考えを大切にしています。じゃあ、自立していないじゃないか、というのが、私の素朴な疑問でした。実際、人は一人では生きていけません。もともと支え合って生きているのです。
「たんとるまいる」では、よく「矢印は自分」という言い方をしますね。他人に矢印が向いているときは、それが愛ならいいのですが、DV加害者の場合、たいてい、愛ではなく、批判、敵対、見下し、軽視、ジャッジなどです。支え合っていることなど忘れて。
だから、「矢印は自分」なんですね。仏教では、「回向返照」と言ったりもします。アドラー心理学で言えば、「課題の分離」にも通じる気がします。相手の課題にあれこれ口を出さないで、自分に矢印を向けてみる。自分の内面を振り返ってみる。
言い換えると、「原因他人論」でなく、「原因自分論」で考えてみるということにもなります。人間は、防衛本能があって、いつも、「悪いのは自分ではなく、相手や周囲の環境である」と考えることで、「自分は悪くない」と思いたいという性質をもっているようです。
そうではなく、矢印を自分に向けるとは、「全て自分が原因ではないけれど、自分にもこの状況を招いた原因の一端はあるなあ」「どうしたら、自分がこの状況を変えられるだろうか?」「自分は、どういう対策がとれるだろうか」などと考えてみることだと思います。これは、支え合いながら、それでも、他人や状況のせいにしないで(依存しないで)、自分が受け止め、できることをする(自分で自分を満たす)ということであって、互いに壁をつくって殺伐としている「自己責任論」とは明らかに違います。
矢印を自分にくるりと向けて、「原因が自分にもある」と冷静になることは、いわば、自分を見つめること。それが、自立につながる一歩ではないかと。素直に自分を見つめる。相手に矢印を向けて攻撃(依存)するのではなく、自分は誰かのために何をできるか自問する。それこそが自立のような気がします。そうした豊かな相互関係を考えると、「誰にも頼らず生きている」と考えるのは傲慢ともいえます。自立とは、すでに支えられていること、支え合っていることに気づくことです。
こんなことを思いながら、まだ全然できていない私。修行は続きます。
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