昨年十月から別居を開始し、五月から同居再開となりました。
期間としては約半年とそう長くはありません。といって自分がパートナーにしてきた暴力が質的、量的にたいしたものではなく、ダメージが少なかったから、とは思っていません。
今回の別居→同居の流れを、日常と非日常という対比で考えてみます。
わたしたち夫婦にとって、当初、今回の別居は非日常でした。
わたし自身の蒔いた種によって、自分はもちろんのこと、パートナーや子どもの生活サイクルや心理状態までも変えることになってしまい、二人には大きな負担を与えることになりました。
わたしとしてはその間、家事や子どもの迎えなど、できる限りのサポートをすると同時に、仕事や趣味、たんとでの学び等を通して欲求充足をし、なんとか自分自身に矢印を向けるように日々を経ていました。
そうして別居も二、三ヶ月を過ぎる頃には、別居した頃に感じていた非日常の感覚が薄れていくように感じました。
日常は非日常に、また非日常は日常に容易に反転してしまう。
我が身をもって体験してみると、それは実に恐ろしいことだと思います。
話はやや飛躍しますが、パートナーや周囲の人への身体的、精神的、性的暴力を生まれながら日常のものとして体験し、体得してきたという人もいるにはいるでしょう。けれど思うに、多くの場合、最初のうちはそれらの行為を非日常のものと見做していたはずです。
ただそうした行為はいずれ次第に習慣化され、非日常が日常になる。
日常に癒着した非日常を剥離することは、当人にとってそれがあまりに自然で当たり前のことである以上、自分一人の能力を超えているように思います。
わたしは一風変わった生業を持っていて、詳細は省きますが、それは一言でいえば、他者の日常に紛れ込んだ非日常と膝突き合わせる仕事です。
にもかかわらず、わたしは自分自身が一体どのタイミングで日常と非日常のボタンを掛け違えてしまったのか、まったくわかりません。
先にも書いたように、わたしたち夫婦は五月から同居を再開しました。
一般的に考えるなら、それは非日常から日常への切り替えということになります。
けれど同時に、現在のわたしたちは、半年のうちに日常化してしまった別居という状態を、もうひとつの日常である同居へと切り替える過渡期にあるのでしょう。
要するにいまだ非日常の状態を継続しているわけですが、その非日常が改めて日常へと埋没していったときこそ、人間は同じ過ちを繰り返すのではないかと考えます。
「日常を取り戻す」とわたしたちはよく口にします。
けれど本当に大切なのは、日常の中にあって、非日常の感覚を忘れずにいることではないか。
最近はそんなことを考えています。
※写真は先日作った「酸豆角炒肉未」という料理です。乳酸発酵させたササゲと豚挽肉、唐辛子を炒めて作るのですが、日本ではあまりササゲが手に入らないので、インゲンで代用しています。
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