DV加害者の欲求充足は罪か?

私は以前好きなことがありましたが家族を理由に半ば諦めていました。

家族がいるということは自分だけの時間を持つことが少なくなるのは当然と承知していましたが、時が経つにつれ自分の時間を持つことは罪であり、自分の時間を持つことは許されないとパートナーから強要されているように感じていたのです。

 もちろん強要されたことはありません。私が勝手に解釈していただけです。

 

自分の時間を作る工夫をせず家族や他者の責任にして、その不満を自分の「不満BOX」に溜め込みます。

 不満BOXには自分の時間が取れないことへの不満意外に社内人間関係の不満、パートナーへの不満、子育ての不満などその都度対応してこなかったあらゆる不満が押し込まれ、ついに不満BOXの許容量を超えたときにDVという形で噴き出すということを何度も繰り返しました。

 自分の歪んだ特権意識による他者への対応が「相手への攻撃」と考えず「自分の正しさを伝える」という感覚なので相手との関係性が悪くなるのは明白です。

 結果的に家族とは別居し現在は家族への償い、自分の言動、価値観の選択肢を広げるべく学んでいます。不満BOXはなくなることはありませんが、物事にたいして不満に思う前に回避するような言動を注意することで不満BOXに溜まる量が大きく減りました。

 そして冒頭の「私が好きなこと」を再開したことで他者に欲求を満たしてもらうことを願うのではなく、自身の意志で、自身の責任で欲求を満たすことで自分に向き合える余力を少しずつ感じられています。

 

 しかしパートナーはどうでしょうか? 私から受けた暴力の記憶、仕事、家事育児による負担でパートナー自身が欲求を充足できるのでしょうか?

 被害者の苦労を知りながらも被害者への償いとは関係ない「自分の欲求を満たす」ことは加害行為をした事実から目をつむっているのではないかという葛藤が今でも少なからずあります。

 また当然ではありますがDV加害者に対する一般的なイメージとして「DV加害者は変わらない」「DV加害者にはより厳しい処罰が必要」と否定的な傾向が強くあるので、我々が自分自身の欲求を充足していることについても「被害者が苦しんでいるのに加害者が苦しんでいないのはおかしい」と考える人もいると思います。

 それでもグループでは「自分の欲求を知り充足させること」は加害行為を手放すことにつながるとしています。 

 「他人の欲求充足のお手伝いをしながら自分の欲求を満たすこと」が自分自身に余裕が生まれ、変化することを実感していけば他者に対する接し方も変化し、それが他者との良好なコミュニケーションにつながる。と学んでいます

 確かに自分が満たされていないのに他者を思いやる気持ちを持つことは難しいでしょう。実際私も自分に足りない欲求を分析して可能な範囲で取り組むことで、欲求充足に必要なことが明確になり思考が整理された感覚があります。そうすると他者に向ける意識も変化し、相手の言動を対等に捉えようとすることをようやく考えられるようになりました。

 

 グループに参加している方々も様々な欲求充足を図っていますが、そのどれもが自分自身を見つめ直し加害行為を手放すためです。

 一般的には加害者が更生するために必要なのか理解しづらいかもしれませんが、今まで他者へ攻撃することで自分を保つことをしていたため、自らの責任において欲求充足することは人間らしく生きるための訓練なのです。

 私はこれからも欲求充足をする度に家族への思いに葛藤するでしょう。それでも「他者との交流で加害行為を手放す」という当たり前の人間を目指すべく、今日も好きなことに取り組んでいます。

 

写真は再開した好きなことの一つである模型作りの作品です。

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