
「あんたが死ねば早く終わるのに」別居前にパートナーから言われた言葉です。
あれから四年経ちますが、彼女自身はその思いを抱き続けているようです。当初は困惑し、彼女の怒りはいつか治まるのではないか。と考えていて自分の思考の浅はかさに気づいていませんでした。
時間が経てばチャラにできるとは加害側の理論で、被害者はその時の状況や相手の言動、表情、声、恐怖、理不尽、屈辱、怒り、憎しみなど鮮明に記憶していて、日常生活のいたるところでフラッシュバックすることがあります。つまり別居しようが離婚しようが相手の魂に二度と消えない負の記憶を与え、一生苦しめる可能性があるのです。
被害経験者の回復期間に定義はありません。個人によって度合いがあります。数年かかる場合もあれば、もっと長いか、回復しない場合もあるでしょう。私のパートナーもこの限りではありません。そのことを踏まえると、この四年の間、パートナーは私のDVにより現在も私に苦しめられていると考えられます。
婚姻費の連絡のやり取りしかありませんが、子ども達関連など多少の意思疎通が必要なときは、子ども達関連など多少の意思疎通が必要なときは、メールで要件のみを短く伝えるようにしています。余計な感情や推測を書き足さない。「受け取りました」「◯日までに◯◯をします」「必要であれば◯◯に確認します」。その三つで十分だと、プログラムで学びました。釈明や自己防衛のひと言――「そんなつもりじゃなかった」は、相手には二次加害として響く。沈黙すべき場面で沈黙せず、言うべきことを感情で濁すのは、結局自分の不安を相手に背負わせているだけでした。
謝罪についても同じです。私は「謝りたい衝動」をそのまま行動にしない。事実と責任、これからの安全の約束に絞って書く。気持ちをわかってほしい、許してほしいという欲は、被害者に感情労働をまた強いるからです。「加害更生は一生かかる」という教えは、自分が変わり続けることだけでなく、相手の怒りや憎しみが続く権利を尊重し続けることでもある――その意味を、ようやく骨のところで理解しはじめています。
プログラムでは、権力と支配、境界線、トリガーについて具体的に記録する習慣が身につきました。私は朝に自分の緊張度を数値化し、職場や外部で出やすい言動(文句、相手を非難する)を意識します。これらも暴力の連鎖に組み込まれると学んだからです。行き違いが起きた日は、体の反応を落ち着かせるために時間と距離を置き、事実だけを話す。相手の安全が最優先で、私の安心は二の次。被害の基準は私ではなく相手が決める――その前提を、毎回、最初に置く。
四年という時間は、私にとってはようやくスタートラインでした。私は「終わらせる」ために死ぬ必要はない。むしろ、生きて、補修する・支払う・待つ、を続けることが、私にできる唯一の責任のとり方です。許しを求めないこと。関係の再構築を目的化しないこと。彼女が私から距離を取り続ける選択を、私が支え続けること。それが、私の加害の後始末です。
「あんたが死ねば早く終わるのに」という言葉は、今も胸の中にあります。けれど私は、死で終わらせないと決めました。毎日の小さな選択――連絡の仕方、言葉の節度、距離の保ち方、支払いの履行、助けを求める勇気――それらの積み重ねでしか、次の段落は来ない。私が消えることで終えるのではなく、私が変わり続けることで、彼女と子ども達の時間が少しでも安全で静かなものになるように。今日もまた、迷いながらも生きようと思います。
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