舞台に上がった子供が、演奏が始まる前のわずかな時間にきょろきょろと客席を見渡している。
やがて私の姿を見つけると、もう手を振るような年齢ではないため動きこそなかったが、その表情が緩み、安堵の色が浮かんだのが分かった。
普通なら「可愛いな」「頼りにされているな」とよろこびに浸る場面かもしれない。
しかし、私にはよろこびと同時に重い責任がのしかかる感覚があった。
あの表情は裏を返せば、私の存在が子供にとって不確定な要素であることの証かもしれない。
家庭で暴力を振るい、支配的な言動を繰り返している私の姿を見つけることは、安心と同時に緊張でもあったはずだ。
「お父さんは怒っていないか」
「機嫌は悪くないか」
私の暴力に怯える日々を子供に背負わせてきた。
今日子供が見せた安堵は「来てくれた」という思いに加えて、「今日のお父さんは大丈夫だ」という確認でもあったかもしれない。
私が変わろうとしている気配を、子供なりに慎重に読み取っているのかもしれない。
そうした信頼がどれほど脆く、過去の傷の上にかろうじて築かれているものかを痛感する。
例えるなら、私が壊してしまった土台の上に、子供が自分の力で組んでくれている足場のようなものだ。
子供が私を探したとき、そこにあるのが必ず「安心・安全な父親」であること───。
これは私が生涯かけて果たさなければならない最低限の責任だ。
私は自分の加害性と改めて向き合い、暴力を手放さなければならない。
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