回復の芽は必ずある

 私が少しずつ読んでいるのが、毛利真弓さんの著書「刑務所に回復共同体をつくる」である。島根の官民協働刑務所で行われた回復共同体(TC)の実践記録の書である。

 たんとすまいるの関係者には、坂上香監督のドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」の舞台となった学習プログラムについて主宰者側から論じた著作と言った方が分かりやすいだろう。「プリズン・サークル」は、坂上監督が米国の民間団体アミティのプログラムを撮影した「Lifers ライファーズ 終身刑を超えて」の日本版とも言える内容である。

 毛利さんは、臨床心理士、公認心理士で、今は同志社大准教授。島根の刑務所では、犯罪者の回復をサポートする民間の社会復帰支援員として、TCの設置・運営に携わった。本には、支援員として、犯罪者にどう関わったかという経験、葛藤がリアルに描かれていて、それがとても示唆に富んでいるのだ。

 TCは、犯罪者が刑務所で自分に向き合い、生き方を変えるための共同学習プログラムなので、たんとすまいるでやっていることと共通点が多い。学びとなった箇所は多いが、その一つは、毛利さんが、罪を犯した人に対し、「犯罪者」として差別することなく、同じ人間として接していることだ。

 DV加害者である私自身ですら、刑務所の犯罪者は、「自分とは違う人たち」「恐い人」「危ない人」「まともではない人」と差別しているところがある。ところが、毛利さんは、そういう見下し、差別をせず、彼らを同じ「人間」と見て、回復を願っている。

 考えてみると、パートナーや子供たちを傷つけた私自身も、たまたま逮捕されなかっただけである。それなのに、自分は彼らとは違う「まともな人間」と考え、彼らを差別しているのだ。誰でも「普通の人間じゃない」と思われたくはないし、そもそも、人を「悪人」「特殊な人間」「絶対変わらない人たち」と決めつけて接していたら、更生の障害になるだけだ。多数派にいると思い込んでいる側は往々にして少数派を見下している。

 だが、多数派だと思っている人間が、相手の境遇である少数派になることはいつだって起こり得るのだ。環境、条件次第では、自分が犯罪者になることだってあるだろう。まさに親鸞が「歎異抄」の中で言っている「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」である。

 自分は「善」で相手は「悪」、自分にとって都合のいい人は「善人」で都合が悪い人は「悪人」とするのが人間の常で、立場によって、善と悪は入れ替わる。その自覚、自省こそが大切である。

 毛利さんは、どの人間の中にも、加害性、被害性があり、人生の中でいろいろなことが起きて、罪を犯すことになったとしても、その人に回復の芽はあると考えているのだと思う。

 本当の意味で、人間が変わることが容易でないことも事実だ。加害者が変わるには、どれだけ自分のことを素直に話せるか、真に自分に向き合えるか、自己憐憫に陥ることなく、心から後悔し、自分が主導権を持って、自分の人生を切り開いていいけるか、その意思と覚悟にかかっている。

 人間の中には、幸せになりたい気持ち、人間ゆえのあたたかいこころが必ずある。その芽を大切に育てていくことが大切である。たゆまず努力すれば、必ず変わることができる。そう信じて、一歩一歩進んでいる。

写真は、台湾家族旅行で、私と妻がランタンに書いたメッセージ

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