「私の中にある狂気」
(1)夫:40代(防災関連、関東地方在住)
(2)妻:40代
(3)子:男1人、女2人
(4)既婚or未婚:既婚
(5)同居or別居:別居
(6)プログラム参加期間:1年
【はじめに】
私の性格と考え方は、かなり独特であることが最近わかりました。
自分の本質を知るきっかけは、突如、妻と子供が家を出て行ったことによります。
現実が正解だとすると、この現実を招いた原因は私の暴力です。更に、暴力を引き起こした私の思想と人格にも問題がありました。今さら具体的な原因が次々と溢れてきます。46歳で悪い自己発見の連続です。
この年齢になるまで自分の本質を理解していなかった者が書く文章ですから、読み進める上で要旨を掴んでいただくのが大変だと思います。少しでも楽に読んでいただくために、まずは私の人物像をイメージしていただく必要があると思いました。
冒頭から少しご面倒をおかけしますが、そのような理由で自己紹介が長くなります。これからお伝えする情報で私の容姿と人物像をある程度イメージしていただくと、以後すんなり読み進めていただけると思います。
【自己紹介 46歳の私】
・職業防災関連、身長181cm、体重84㎏
・頭髪は30年以上坊主頭かスキンヘッド(別居後は髪を伸ばした)
・趣味と特技は、沖釣り、旅行、料理、空手道五段
・見た目が暴力団関係者と間違われることがある
これで私の風体をある程度イメージできたと思います。次に背景です。
・住居にはそれなりに広い敷地と、代々続く農地もある。
・現在同居している家族は、自営業の父、元公務員の母、私、高校2年生の長女。
・妻、次女(中2)、長男(中1)の3人とは別居している。
・突然の別居と同時に、妻から離婚調停が申し立てられ、半年で3回の調停による話し合いの結果、離婚は不成立になった。その調停で、子供の監護権と毎月の婚姻費用が決定し、妻、次女、長男の3人との別居を無期限で継続することになった。
・高校から空手を始め、1年半後には全国規模の大会で上位の成績を修めるようになった。高校卒業後、防災関連の仕事に就きながら空手の選手を続け、指導者にもなった。教え子の中から、東京オリンピック代表選手を含む世界チャンピオンを二人、国内上位の成績者を多数輩出した。
・仕事では前例がない早さで昇任昇格してきた。部下が100人以上いる管理職では最年少、この職責では唯一の高卒。
以上を読むと、私のことを運動神経抜群で頭脳明晰。学歴を越えて仕事をバリバリこなし順風満帆。現在まで思い通りの人生を過ごしてきた。そんなイメージも追加されたと思います。しかし、本当のところは真逆です。以下が私の本質です。
・運動は苦手で大嫌い。球技は全滅。走ればいつもビリ。多くの危険が伴う職場なので、上司として部下に姿勢をアピールするため、嫌々、ヤケクソになりながら体を鍛えたり、勉強をしている姿勢を見せているだけで、いつもサボる口実を探している。そして、何事にあっても目立たぬ部分は全てサボっているので、真に必要なスキルが欠落したままである。
・人と会話を交わすこと自体が苦手で、特に若年層や女性との会話が苦手であるが、年長の男性との会話は苦にならない。
・年下の友人が一人も居ない。
この辺りで、私の風変わりな要素を感じ取っていただけたかと思います。次に、主義や思想です。
・懐古主義で、現代では到底許されないことでも肯定してしまう。
・男女平等、男女共同参画、ジェンダーバイアス、子供の人権、性的マイノリティーなど、これらのことをよく理解している素振りや言動でアピールをしていたに過ぎず、本心では「そんなものクソ食らえだ」と思っていた。
・未成年者が権利を主張したり、大人に対して自己主張をするのは生意気だと思っていた。
・社会と家庭の実権は男性が握るべきで、それに従わない女性と子供は間違っていると思っていた。
・夫(父親)は、仕事も遊びもいつもギリギリに追い込むような特別な生き方をしなければならず、妻と子供はそれを理解して支える義務があると思っていた。
現在の私は、これらを書いていて背筋がゾッとします。この時点で相当に怖い人間ですし、狂気すら感じます。
※この「狂気」というものが、私の人格や思想を形成する大きな要素であり、なおかつ、暴力の原点にあるものだと確信しています。
なぜ狂気が私の暴力の原点なのか。それは、私にとって何かの局面を迎えるごとに、心の内に潜んだ狂気を表に出して、誰かを傷つけることもいとわず、自分だけの力で難局を乗り越えてきたという自惚れた成功体験に縛られて生きてきたからです。
初めて自分の内面に狂気が存在していることに気づいたのは、中学3年生の秋頃、思春期の悩みの中で生きる頃でした。
【中学生時代に遡り】
内向的な性格で、勉強も運動も全く駄目でした。
中学校生活に馴染めず、会話も苦手で友達も作れず、よく先輩や同級生たちにちょっかいを出されていました。何度も登校拒否をして、川で釣りをして過ごしました。
【転機は高校入試直前】
当時の私は、どこの高校にも入学できない学力でした。5教科の合計点が80にも満たない点数で、全ての教科が20点以下しか取れず、もはや入試どころではありません。
そんな折、偶然入った理髪店の店主との会話で、隣町の高校の空手部が全国的な活躍をしていることを知り、震えるほどの衝撃を受けました。
自分を根底から変えるにはそこしかないと奮い立ち、その高校に入るために必要とされた偏差値が、思い立ったときにあと30も足りない状況でした。私はそれを全く意に介さず、無謀にもその高校を入試することを決意して猛勉強をしました。そのときに、自分の中に狂気らしき存在があるのを初めて認識しました。そして、空腹や眠気も忘れて狂ったように勉強して、どこをどうしたものか思い出せませんが、奇跡的に入学することができました。
入学式当日、私は駆け込むように空手部へ行き、開口一番で入部を懇願しました。ちなみにこの行動は、昨年妻と子が突然出て行った事にうろたえてジタバタしながら「たんとすまいる」に駆け込んだときと、行動の原理がよく似ています。30年以上経っても私の本質は変わっていないということでしょう。
話を戻しますが、母校の空手部は、経験者の推薦を一切取らず、初心者鍛え上げて毎年インターハイに出場させ、ときには全国優勝までしてしまう、とんでもない嘘のような実積がある所でした。
この空手部には、弱者を強者に変える様々な理論や効率的な練習方法があるはずだと期待していましたが、想像とは全く異なりました。
「勝つため」と称した練習方法は、敢えて時代に逆行した根性論の教育と鍛練しかありませんでした。そして、常人が絶対に耐えられない苦痛に耐えてこそ、他を圧倒できるという指導方針でした。当時の私は、旧日本軍などの訓練が容易に想像できました。
休日は年に2日だけ、いつも痛みと疲れと喉の乾きに苦しみ、身体のどこかが必ず出血して、口の中も傷だらけで食事が毎食痛くて大変でした。そんなようなボロボロの毎日でした。頭が狂わなければやっていられないような環境でしたが、私にはなぜか空手部の居心地が良く感じられたのです。
気がつくと、私は県内に70校ある空手部の中で、優勝できるレベルになっていました。
校内はもとより、他校の生徒や地元の人にまで私の存在が知られるようになり、不良といわれる生徒が私を避けました。まるで映画の主人公になった気分でした。中学生の頃の自分が嘘のような転身です。
そんな成功体験が、後々になって私の暴力の発端になりました。そして、以前はポジティブにできていたはずの励ましや鼓舞といった行動が、差別、否定、軽蔑、恫喝、体罰のようにネガティブなものに変化していきました。
【妻との出会いと暴力】
妻は高校の同級生です。そして、同じ武道場の剣道部員でした。卒業してすぐに付き合い始め、約10年の交際期間を経て結婚、3人の子供を授かりました。
交際した当初から、妻には私の生き方に全て従うべきだと命令しました。妻の態度からそれを感じ取れないときは、すぐに不機嫌になり無理難題を押し付けました。
妻は、私のことを高校時代から近くで見知っていたので、理不尽さや暴力的なことに寛容で耐性があるはずだと思い込み、強制的に主従関係を作り上げました。
「何も言わず三歩後ろを歩いていれば良いのだ」と言って、彼女の行動と思想をコントロールしてきました。
妻は、物静かで大人しい性格です。そんな彼女なら男尊女卑の思想を理解させ易く、いつでも支配できると当時の私の直感が感じ取ったのだと思います。
そして、妻には父親が居ないこと、三姉妹の長女であることも、私の存在を絶対的な権力者にするために、妻の生い立ちや境遇を過度に利用しました。そして、私の欲や威厳を満たすために、彼女の人生を私が自由に使い、お互いその関係でいることが本当の幸せであるという思想を植え付けました。
私は当時から、誰かを支配することに対して、実に狡猾でした。
ときに妻と言い争いになると、頬を張り飛ばしたり、足をかけて転ばせたりしました。私は、妻を徹底的に服従させるという信念を持っていました。
【妻と子供への暴力】
私の3人の子供は、あまり運動が得意ではありません。走り方も皆が少年期の私とよく似ていて遅いです。そんな子供たちの不器用な様子を見ると、私は不甲斐なさを感じてとにかくイライラしました。
彼らの運動神経や学力は、少年期の私とは比べものにならないほど良いにも関わらず、気合いと根性が足りないと言って手をあげ、泣くまで叱責しました。
勉強も同様で、気合いと根性が足りないから結果が伴わないのだと延々叱り続けました。
毎日の食卓では、子供が食べ物をこぼしたり、雑な箸づかいをしたときにはすぐに体罰を与えました。その都度、妻を睨みつけて妻の子供に対する躾が悪いと言って、妻を子供たちの前で叱責しました。これがほぼ毎日続きました。
【仕事と暴力の関連性】
私は、人々の生命と財産を守る仕事を誇りに思っています。
自分で言うのはおこがましいですが、とにかく一生懸命にやってきました。
世間一般の方々から見ると、私の仕事は格好よく映るらしく、好感を持ってくださる方も多く、感謝の声が直接届くこともあります。
私という人間に対して周囲の人が抱いているであろう印象は、「見た目は少し怖いけど優しい」「仕事と家庭を両立させていて、育児によく参加している」「料理上手で多趣味の素晴らしい人」このような人物像に映るようです。
妻と子供達も、私のような旦那さん(父親)がいて羨ましいとよく言われたそうです。思い返すと、妻は誰かにそう言われたことを私に伝えるときに、とても複雑な表情をしていました。
私が周囲から好意的に見られていた理由は単純です。そう見られるように、私が巧みに仕向けてきたからです。
家族には飴と鞭を使い、世間には嘘や印象操作を駆使してきました。
職業すらも、私の承認欲求を満たすために利用してきました。更にその利用効果を高めるため、早く出世して目立つ位置に立ちたいという欲も強くなりました。
【容姿について】
ここで、私の容姿のイメージを思い返してください。
普通にしていても、いかつく見られました。そうなればしめたもので、睨みや恫喝で相手に恐怖を与えるのに大変便利でした。
周囲をコントロールする事に主眼を置く私にとって、怖い容姿は何かと都合が良かったのです。暴力団が独特の容姿や雰囲気になる理由と何ら変わりません。
特に妻には、結婚してから19年、交際期間も含めると30年近くも恐怖を与え続けてきたことになります。
彼女の人生の大半の時間を、私が恐怖を用いて搾取して自己利用してきた事を思うと、自分でも吐き気がします。
暴言はもとより、表情や態度による威圧など、かつて私が暴力と認識できなかったような行動を、今なら明確に暴力と捉えられるようになりましたが、気づいた頃には既に多くの事が遅きに失していました。
あらゆる暴力を手放すには、自分の容姿と雰囲気もよく認識して、内側も外見も整えることが重要だと気づきました。
【欲について】
中学生の頃、性欲が芽生えるとともに、男性の世界でも優位に立ちたい、とにかく女性にもモテたい、という欲求がどんどん増大していきました。
要するに、「ボス猿になってたくさんセックスがしたい」 → 「俺はこのままじゃ一生ムリだ」 → 「すぐに強くなって一目置かれるしかない」の図式が生まれました。
その図式を埋めるために、どうしても必要だと直感した空手部がある高校に、偏差値が30も追いつかない状態にも関わらず入試を目指したのです。
そんな悶々とした性欲とモテたい一念で打ち込んで、それなりに成功した訳ですから、性欲を含めた欲望の力というのは本当に馬鹿になりません。最高の原動力になります。しかし、コントロールが難しく、不幸を招く生理であることも確かだと思います。
かつての私は、欲しかったものを全て理不尽や暴力に耐えることを経てから手に入れてきました。そして、これらの強引な力を伴わなければ欲しいものは決して手に入らないと思い込むようになり、暴力を肯定的に捉えるようになりました。その偏った考え方が定着したことで、思考のバランス感覚を失ったのだと思います。
そして、そのやり方で欲望を一旦満たすと、なぜか虚しくなりました。その虚しさを埋めるために、更に大きな欲望を詰め込んでいきました。
どんなことでも、寝る間を惜しんで狂ったように取り組むと、欲しいものや目標へのアプローチ効果が良い事を実体験で知っていましたので、それが次第にエスカレートしていきました。そうして、欲望と狂気と虚しさの循環が生じました。
仕事も遊びも、人には言えないようなことも、欲することにはとことん没頭しました。最高の結果を得るには、自分の内に秘めた強い狂気を使えばどうにかなるという、私なりの方程式が完成しました。
かつての私は、何事も殆どがビリだったにも関わらず、もはや1番や別格にならなければ気が済まなくなり、次第にその度合いも増していきました。そのために家族を利用することもあれば、私の欲望を優先した価値観を家族に押し付けてもいました。
【今後どうするか】
現在の自分を知り、その自分の変化を望むようになった発端は、昨年4月1日に妻が次女と長男を連れて突然家を出て行ったことでした。置き手紙の存在はエイプリルフールの冗談かと思いました。
長女は、彼女なりの考えがあって私の元に残ってくれました。このことも現在の私に大きく影響しています。
妻の弁護士から届いた書面を読んだとき、エイプリルフールから一気に面食らった状態になり、いよいよ事の大きさを感じて近くの法律事務所へ行きました。
「いつも妻や子どものためを思ってしていた」など、私が今までしてきた暴力を正当化するような主張をしたところ、それを遮るようにその弁護士から言われたことは、「私の行為は到底擁護できない」というものでした。
私は、海に溺れるような心境に陥りました。
妻の代理人からの通知で訪問が禁止されていたにも関わらず、私は妻の実家へ行くと、妻と少しだけ話すことができました。この行為も調停では悪く影響しました。
このときに妻から、DVの加害者を更生している団体のホームページの用紙をもらいました。印刷の日付が2014年であることから、随分以前から妻が私の暴力に悩んでいたことを知りました。
妻から受け取った用紙をもとにホームページを検索したところ、その団体はコロナの影響で休業していました。更に検索を続けていると、遠隔受講できる「たんとすまいる」のホームページに辿り着き、すぐにプログラムの参加を申し込みました。
参加当初の私は、学ぶ理由を早く家族を連れ戻したいという思いを強くして臨んだ行動一つと思っていましたが、今は違います。
プログラムを通じて、私には人の痛みを理解できないという最大の欠点があることに気づきました。それは想像力の欠如です。その欠点を毎日具体的な行動で補いつつ、想像力を養うトレーニングとしてプログラムに参加するようになりました。
そして、参加して気づいたことは、人としての本当の強さとは、実は優しさと同じ性質のものである。その了見で自分を見つめ直すと、私はとても弱いということでした。
私は、生涯をかけて本当の強さと優しさを追い求めることが、自分に課せられた最良の課題であると強く認識しました。このことを、今後の人生の指針にしました。
現在進行形になりますが、後悔と懺悔、感謝と希望、不安と恐怖など、あらゆる感情をごちゃ混ぜしながら、少しずつ前に歩くような毎日です。
懲りずに失敗を繰り返したり、ときに課題を理解できずに疑心暗鬼になってサボって後退することもあります。しかし、その度に立ち上がっては、どうにか歩くことができています。
先日、不意に長女が、「パパ、1年で一回も怒らなかったね。全然怖くなかったよ。偉かったね。」と言ってくれました。
参りました…本当にたくさんの意味で参りました。
隠れて感涙に浸ったのですが、この宝物のような言葉の中に大きな学ぶ要素があることに気づき、すぐに涙が止まりました。それは、「全然怖くなかった」という意外と抽象的なことを長女は評価したのです。要するに、私の存在と雰囲気だけでも十分な暴力だったのです。
家族にとっては、本来は世界一安全な場所であるはずの家が、私が居るだけで世界一怖い場所であったと思います。
仕事面では、市民の安心安全だの、人々の生命を守るだの、実にもっともらしく言っておきながら、実際は家庭ひとつ守れていないばかりか、家族の安心安全を脅かし、精神的、身体的な暴力も加えていた現実と向き合い「何てザマだ」という心境でした。
DV加害更生プログラムの学びと並行して、私の存在と雰囲気の質感を変えていかなければなりません。その具体的な方法として、私は敢えて知らない世界に飛び込んでみようと決意しました。
そして、その決意を後押ししたのは、私が長年培ってきた「狂気」でした。今回はこれを、暴力を手放すために平和利用することが、現在の私が導き出した結論です。
サンタクロースに扮するボランティア、話し方講座、マジック講座、子ども食堂のボランティア、老人宅の草刈り、習字、フラダンスに至るまで、それはもう節操もなく飛び込みました。
当然、すんなりいく筈もなく、サンタさんや子ども食堂では子供たちに「怖い」と泣かれ、フラダンスでは小学5年生の女の子と70歳の女性と一緒に基本動作を習っている最中にぎっくり腰になってしまい翌日の仕事を休み、人前でマジックを披露すればタネと仕掛けが飛び出し、話し方講座を受講して万全を期して臨んだ県の重要な会議では、「パイプライン」を誤って「パイプカット」発言してしまい失笑を買いました。いつも玉砕と討ち死にを繰り返しています。そしてたまに成功があるだけです。
私の本質は、不器用な中学生の頃のままであることが本当によくわかります。しかし、あの頃と違うのは、上手くいってもいかなくても感謝をするようになったところです。そんな日々、悪くはないです。
【おわりに】
私の暴力を詳細に語らなければならないと知りつつも、今の感情を未来の自分に向けて鮮明に保存する目的で、この体験談執筆をさせていただきました。
楽譜や絵画のように、感情を紙にアナログで記録したつもりです。私自身が読み返したときに思いを甦らせて役立たせたいと思います。
書く動機としては不純かもしれませんが、いつか決意が色褪せて、また逆戻りして暴力を使ってしまう不安が、私にはいつも付いて回るのです。また、本プログラムの参加者は皆、私と同じような不安を抱いていると思います。
あらゆる暴力を振るってきた私が思うに、暴力を手放すということは、麻薬中毒の治療と似ているのかもしれません。生涯を通じてあらゆる手段を尽くす以外に道はないと思います。
改めまして、この場を私的に使わせていただくことをお許しください。
そんな思惑がありましたので、未来の自分用にすんなり正直に書きました。
風変わりな体験談になってしまい、お読みになって不快な思いもさせてしまったことと思います。どうかお許しください。
どなた様にも、安心で安全な毎日が繰り返されますように。
一般社団法人 Turn to Smile たんとすまいる
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