仲間のひとことから気づいたこと

先日、グループで差別と区別の違いについてディスカッションしたとき、

ある参加者の言葉が私の心の中に「ストン」と入ってきたというような体験をしました。

そこから自分の思考癖に次から次へと目がいき新たな気づきを得ることができました。

 

その発言とは差別と区別についての説明をひとことで

「差別とは主観的に区別すること」といったものでした。

私はこの言葉を聞いたときすぐに男女の例えが頭に浮かびました。

男女の性別を生殖機能で分類することは区別だが、

女性は男性よりも筋力が劣るという見方(主観)は差別に繋がるのではないか、と。

 

一般論としては男女には筋力差がありますが、

すべての女性が男性よりも筋力が劣っていることはありません。

それにも関わらず十把一絡げにすることで、

あたかも男性は女性よりも筋力について優位にある(強い)とすることが

差別意識なのではないかと思いました。

 

 さらに筋力差を優劣で表現することも無意識の差別に繋がるのではないかと思いました。

この気づきを他の事柄に置き換えて考てみると、私はほとんどのことについて無意識で差別的な見方をしていることもわかりました。

 

例えば子どもは無知で非力であり、

・高齢者は動作が緩慢で判断力が鈍いという主観による年齢差別。

・見た目で身なりが良いひとは収入が多く、みすぼらしいひとは収入が少ないという

 主観による外見差別と経済差別。

あるいは

・有名大学卒のひとや職位が高いひとは有能であるという主観による学歴と役職差別など、

 

列挙したらきりがないほど差別的な思考で世の中を見ていた(いる)ことがわかりました。

そしてこのような主観に基づき優劣をつけて差別するという

思考癖も私のDVに繋がっていたのだとも思いました。

 

私の主観とは、一方的な決めつけで客観性に欠けており公正でないことがわかります。

またそこには、他人や周囲の出来事を自分は評価できる(してもよい)という傲慢さもみられ、

とても恥ずかしい思いがしました。

 

私は差別と区別についての考察にあたり自分で納得のいく言葉で表現できずにいたため、

それぞれ辞書で調べた知識としてしか認識できていませんでした。

しかしそれを適切に言語化してくれたグループの仲間のひとことが、

私の理解を促してくれたのでした。

それによって自分のパターン化した思考癖に気づくきっかけにもなり、

知識としてではなく感覚として差別と区別の違いを知ることができたのです。

主観的で視野が狭くなりがちな私はグループでいつも新たな気づきをいただいているのです。