宇多田ヒカルさんから学んだこと

たんとすまいるのお世話になって、早いもので2年半です。最近、つくづく思うのは、「自分は落ちこぼれだなあ」ということ。たんとすまいるに来て数カ月ほどの方で学びを深めている人もいるのに、私はいまだに矢印がパートナーに向いて、心の中で批判、愚痴になることがあります。つまり、DV的な考えが抜けず、相手を受け入れられていないのです。

 

 このことに関連して、X(旧ツイッター)で、歌手の宇多田ヒカルさんのつぶやきがとても良かったので、シェアしたいと思います(分かりやすくするため、私の解釈でまとめています)。

 

宇多田ヒカルさんは、この10年間、自死家族の集会に行くなどして、いろいろ学んでいたそうです。愛する人が死を選んだとき、その理由などを理解しようと思っても、本人しか分からない苦しみもあり、全てを理解することは容易ではありません。宇多田さんは、理解できないことを「受け入れる」ことが大切ではないか、と言います。言い換えると、「受け入れる」とは、理解できることではなく、理解できないことに対してすることだということです。

私は、宇多田さんの言葉は、自死した人だけでなく、生きているパートナーや子どもにも言えるのではないかと考えました。

 

パートナーも子どもも、自分にとっては別人格の人間ですから、完全に理解することはできません。勝手に自分の都合の理解に当てはめれば、それこそ、支配につながる恐れがあります。すべてを理解しきれないからこそ、そんな相手を「受け入れる」ということが重みを増すのです。
 逆に、全てを理解できるなら・・・例えば、数学の問題のように、答えがはっきりしているなら、「受け入れる」必要などありません。正しい答えを覚えるだけです。相手を「受け入れる」とは、理解できないことがあるからこそ、その存在をまるごと受け入れるのだと、私は気づきました。自分とは考えも思いも違う相手を理解しようと、最大限努力をするけれども、それでも、しきれないからこそ、そのままの存在を受け入れ、尊重するのです。「受け入れる」とは、とても深い人間の精神の営みではないでしょうか。

 

宇多田さんは、こんなことも言っています。人が亡くなっても、その人との関係はそこで終わらない。自分との対話を続けていれば、故人との関係も変化し続けていく、と。


 これも、亡くなった人だけでなく、パートナーや子どもに当てはまります。自分との対話を続ければ、つまり、矢印を自分に向け、自分を改め続ければ、相手との関係性は変化し続けます。相手をより深く理解でき、いつか信頼でつながれるはずです。

 

私も、パートナーや子どもを理解しようと努め、理解しきれない部分があっても、否、理解しきれないからこそ、そのままの存在を受け入れます。そして、自分に矢印を向け続けることで信頼関係を築いていきます。

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