僕は怒りたくて怒っていた

僕は「怒りたくて怒っていた」ということをプログラムに参加して、初めて気づくことができました。

 何を当たり前のことを、とおっしゃるかもしれませんが、僕は自分が自分で怒っているという感覚は皆無でした。

 いつも誰かが、僕を怒らせていたのです。

 

 訳の分からない指示をする上司、何を言ってもうまく仕事をこなせない部下、協力してくれない同僚、満員電車で足を踏んでくるおじさん、ちょっと腕が当たっただけで睨みつけてくる若い女性、そんな苦労をして帰宅しても労わりのない言動をする妻、お父さんを尊敬しない子ども、まぁ不平不満を言ったらきりがありませんでした。

 

 誰もかれもが僕に対して不利益をもたらす言動が多すぎる!と、考えていました。

 

 自分が不利益を被っているのだから怒るのは当然だし、怒らなければ相手はますます調子に乗って僕に負担をかけてくると思っていました。

 ですから、いつもイライラしていてストレスを感じるし、そのイライラを信頼できるというか甘えてもいいと思っていた妻に転嫁しようとしていたのです。

 もちろん、妻は拒絶反応を示しますから僕の愚痴や文句を聞かされると不機嫌になり、その反応を見て妻に対して不満を抱き、何とか自分のケアをさせようと必死になっていました。必死になっていたというのは、僕の話を聞いて共感してくれなければ文句を言う、100%僕と同じ感覚になって話を聞いてくれなければ妻を攻撃するということを繰り返していました。

 

 プログラムで僕のような思考と言動は、身勝手で甘えたものであり、自分の心身のメンテナンスは自分がするものであるということを学んできました。

 そんなこと当たり前じゃん、いやいやそうしてきたし誰にも迷惑をかけていないし、自分はしっかり仕事をして経済的にも自立してこれまで生きてきた、と最初は思っていました。

 しかし、僕自身がこれまでの自分の言動を客観的に見ることなどできていなかったということに気づいてきました。

 

 そもそも、周囲の人間や出来事が僕を怒らせている、とうことについては大きな認知の歪みがありました。

 僕は他人と自分が不快に思った(怒りを感じた)話をするときに自分の意見に共感してもらいたくて「10人が聞いたら10人が同じことを言うと思う」とか「普通はみんなこう思う」というような感覚で、自分の話を聞いてもらっていました。

 同調や同情してもらって自分の心のザワザワ感を和らげていました。

 

 しかし、よくよく周囲を見渡してみると激しく反応して怒っているのは自分だけ、とうことが何度もありました。もちろん、例えば僕と一緒に上司に叱責されたメンバーは怒りを感じて自分たちの言い分を話して溜飲を下ていましたが、いつまでも激しい怒りを維持しているのは僕だけだということも珍しくはありませんでした。

 ほとんどの人は、しょうがないかと気持ちを切り替えて次の行動に移っていったのでした。

 

 しかし、僕はいつまでも悔しくて、面白くなくて、納得がいかなくて、ずっと怒りを抱え込んでいました。それが不快なので、他人に不満を聞いてもらったり、大声で文句を言ったりしていました。自分が怒っているということを周囲に知らしめて、気を遣ってもらい慰めてもらいたいと思っていたのでした。

 

 自分のご機嫌を誰かにケアしてもらうことが当たり前だと思って生きてきた結果、このような行動をしていたのだと思います。

 

 プログラムに参加してから自分の機嫌は自分でとるということを学ぶのですが、僕は周囲に自分の責任を転嫁しているという自覚が皆無でした。

 しかしこれまで学んできて、自分の内面の違和感を見逃さずに、自分でその違和感と向き合うとうことがとても重要だという気づきがありました。

 そうして自分の内面に目を向けると、僕が怒り続けるのは、そうすることで周囲に僕のケアをしてもらいたいという企図があったからだという結論に至りました。

 幼い子どもが「僕はこんなに困っているんだよ」「こんなに大変なんだよ」「こんなに頑張っているんだよ」、だからみんな僕のことを認めて、褒めて、労って、という振る舞いをすることと同じだったという気づきがありました。

 

 そしてその未解消の自分の内面の問題には自分自身が向き合い、解決していくことが自分の責任だということも学びました。

 

 プログラムで得た気づきを日常生活でも常に意識して、自分の気持ちの違和感を偽ることなく向き合って加害行為を手放してゆきたいと思います。

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